京橋・宝町法律事務所

KYOBASHI TAKARACHO PARTNERS

私を通りすぎた基本書たち②

前稿(私を通りすぎた基本書たち①)に引き続き、商法、民事訴訟法、刑事訴訟法の基本書をご紹介したいと思います。

商法

私は、商法、特に会社法は苦手でした。会社経営はおろか、会社勤務の経験もない一介の受験生が、いきなり株式だの取締役だの言われても、いまいち具体的なイメージが湧かなかったのです。他方、手形・小切手法は、手形を振り出す人、受け取る人、そのまた手形を受け取る人、という形で登場人物としては比較的単純で、また妙に理屈っぽいところもあり、頭にはすんなり入ってきました。

もっとも、最近の司法試験では手形・小切手法はあまり出題されないようであり、実務でも手形の利用は減っています(私は、弁護士になってから手形の実物を手に取ったのは一度だけです)。

ということで、会社法の基本書をご紹介したいと思いますが、私が良く読んでいたのは、以下の書籍です。

  • 鈴木竹雄「新版 会社法 全訂第5版」(弘文堂 1994年)

この本は、もちろん、現在の会社法制定前の、会社法が商法第2編会社に規定されていたころの会社法を解説したものですが、とにかく薄い本です。しかし、文章は達意というにふさわしく、基本原則・趣旨に忠実に書かれていましたから、司法試験の論証に転用できるものが多くありました。

  • 吉原和志=前田雅弘=黒沼悦郎=片木晴彦「会社法」(有斐閣アルマ)(有斐閣 初版1999年)

この本は、私にとっては、鈴木会社法を補う意味を持った書籍でした。論点は豊富に記載され、制度趣旨に遡った記述が随所にあり、司法試験には、まさしく「うってつけ」の書籍でした。この本を利用している人は、少なくとも私の周りではあまり見かけませんでしたが、隠れた名著であると思います。その後、改訂がなされていないのが残念です。

民事訴訟法

今では想像もつきませんが、司法試験の論文式試験の科目のうち訴訟法は、平成11年以前は民訴か刑訴のどちらかを選択し、その1科目だけを受験することとなっていました。平成12年以降、民訴・刑訴の両方が必修となりましたので、平成11年の論文試験に不合格となった後、それまで刑事訴訟法を選択していた私は、あわてて、民事訴訟法の勉強に取りかかりました。

私は、刑事訴訟法は比較的得意でしたから、同じノリで、民事訴訟法もすぐマスターできるだろう(できるよね)と甘く見ていたら、これが全くの別物で「むずっ!」の一言でした(何やねん、第1テーゼ、第2テーゼって・・とかつぶやいておりました)。

いきなり分厚い基本書を読んでも、おそらくチンプンカンプンですから、予備校のテキストや講義のカセットテープ(!)を仕入れ、これを聞きながらテキストを一通り読みました。これで、何となくの全体像は分かりましたが、にしても、どうにも腑に落ちないというか腹の底からは理解できませんでした。こんな状態では、当然、司法試験の問題を読み解き、論証をするということは出来ません。

そんな中、出逢った本が以下の書籍です。

  • 「民事訴訟法Ⅰ・Ⅱ 改訂新版」(早稲田司法試験セミナー 1997年)

この本は、後に二弁の会長を務められた橋本副孝先生が記された本で、分類としては予備校本になるのでしょうが、並の予備校本とは訳が違い、極めて理論的に緻密な分析がなされ、かつ実務にも配慮がされた名著です。この本に出逢ってからは、これを基本書とし、必要に応じて、

  • 上田徹一郎「民事訴訟法」(法学書院 初版1988年)

で補充を行う、という形で民事訴訟法は落ち着きました。

上記の橋本先生の「民事訴訟法」は、その後残念ながら改訂がなされず、今では入手困難な本となっています。

刑事訴訟法

前記のとおり、刑事訴訟法は、学修を開始した当初から比較的得意でした。これは、おそらく、商法や民事訴訟法と異なり、捜査とか刑事裁判というものが、テレビドラマ等で馴染みがあり、イメージが湧きやすいということがあったのでしょう。

刑訴の基本書しては、以下のものを使用しておりました。

  • 田宮裕「刑事訴訟法 新版」(有斐閣 1996年)

基本書としては、この田宮刑訴だけです。当時は、ほかに田口守一「刑事訴訟法」(弘文堂)を使用している方も多く、私も時折参照していましたが、参考書程度の位置づけでした。

基本書だけでは受からない

ということで、私を通りすぎた基本書たちをご紹介しましたが、司法試験、特に論文式試験に受かるためには、もとより、基本書を読んで理解しただけでは足りません。その理解をもとに、司法試験の問題を、制限時間内に解答する能力、つまり書く力を涵養すること、これこそが重要です。

評論家の小林秀雄は、このようなことを述べています。

「自分は書く事は下手で、考へてゐる事の十分の一も言へてゐない、それを考へて呉れず、自分といふ人間を判断して貰つては困る、文章は浅薄かも知れないが、実はなかなか深刻な事を考へてゐるのだから。さういふ事を言ひます。自分の鼻は見た処確かに胡坐をかいてゐるが、実はもつと上等の鼻を何処かにちやんと持つてゐるのだ、そんな事を言つたらをかしいでせう。をかしいから鼻に関しては、見られた儘で諦めてゐるが、文章だと諦めない。文章が低級に見えるだけではないかと頑固に主張する。もつとましな自分自身といふものが、姿を見せないが、恰も雲の中に龍が隠れてゐる様なあんばいに頭の中に隠れてゐると信じ込んでゐる。これは迷信でありまして、本当の彼自身とは浅薄な文章以上でも以下でもない、・・」(「文学と自分」 昭和15年)

誠に厳しい言葉ですが、弁護士となった今でも、起案をする際には常に心がけるべき言葉であると思っております。

(文責:梅本 寛人

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